久しぶりにチャンドラーを読み返している。
正太郎君の本が切れたからだ。
で、改めてチャンドラーの文体なのか訳者清水氏の妙訳なのか(本人は謙遜なのか「日本語になおすと、魅力が半減してしまう」と)、すばらしく無駄の無い文章、だと惚れ直す。
で、さらば愛しき人よ、の後にプレイバックを読んだ。
訳者後書きを読む。このすばらしい訳者のあとがきは、読むに値するから。
「・・・長いお別れ、から4年半待たされて読まされた作品としては、いささか泰山鳴動鼠一匹の観があるなどとしるしている」
(ハヤカワ文庫P256)
私はこのプレイバックを今回読む時、「最後の作品」だと知っていた。だからかどうかはわからん。
しかし、
この「プレイバック」は、結論から言うと、
チャンドラー、マーロー、の双方の人生の「プレイバック」作品となっていることが途中からわかり始める。
「一ばんふしぎに思われることは、ストーリーにあまり関係ない部分がいつもの作品にくらべてはるかに多いということである。」
(同)
こういうとこはどの作品にもいくらかある、と続いて言っているが、確かに”ストーリーには あ ま り 関係ない”ように見えるが、対象人物たちの「心」の動きを見なければならないのが「人」を描く小説だ。一種、筋書き(ストーリー)より重要になる部分ともいえよう。
そういうところを重要視する”ウリ読み”の場合、そういうところ
が「おもしろい」ところなのだ。作者がどうしてそれをかいたのか?どういうことを言いたかったのか?が読めるのだ。そしてその後の動きで、それが当たれば、読者として、その作家の作品を読む資格があったのだと自覚できるのだ。
こういうことは、チャンドラーに限らず、池波正太郎作品等、素晴らしい文体と深い心象、人間に対する洞察を作品に潜ませた作家の作品には、どれにも通ずるものなのだ。
ホテルのロビーの老人、は、「さらば・・」でも言及された「古きよき特権階級」が「恐竜としてほろびつつある」ことを表現し、しかも、それに対し、「さらば・・」ではなかった「彼らに対する愛情」をもこめているのだ。
薬中の駐車場係りしかり。
で、
「セックスの場面がいつもより非常に多い」
「ラストのリンダ・ローリングからの電話・・・」
(同P260)
についても皆異論だらけのようだ。
が、これは
”この作品が自分の最後の作品だとわかって書いているチャンドラーにとって、マーローに対する親心”
なのだ。
チャンドラーは、そのまま逝くには、マーローが心配なのだ。
だから、「希望」を最後の最後に残してあげたのだ。
セックス場面が多いのは、マーローの気持ち的にも「歳をとってきた」ということの表れであり、最後のリンダの電話に結びつく。前のそれが無ければ、それこそリンダの電話は唐突すぎ、「マーローの老後」に結びつくことは あ り え な い のだ。
また、「アレッサンドロ部長刑事」の登場もそうだ。今までのチャンドラーだったら考えられない「役者」の一人だ。
だが、「最後」だからこそ、こういった「優秀で信頼できる警官」を出したのだ。
もし、私が「子供を授からなかったら」、ここまで理解できなかったろう。
もし私がこれほど(子供を持つ前までに)いい加減な人生を送ってこなかったら、ここまで理解できなかったろう。
今までの私の得たものすべてによって、ここまで理解できたようだ。人からみれば(己から見てもw) ず い ぶ ん な人生の大半であったが、今回は「役に立った」ようだ。
この作品の内容こそ全く私のそれとは違うが、
この作品は、私にとっても、まったくの「私のプレイバック」でもあったようにも感じる。


by unimaro
チャンドラー 「プレイバック…