今の世ほど、事実に対して重要性を疎かにしている時代はないのではないか。
事実というものは、それほど重要ではないことなのか?
確かに、事実がどうであれ、「力」によって全くその事実の意味が無さなくされることが多い。
当事者が事実を知っていても、それだけ。ということになることも多い。
事実を歪曲して全く逆の意味、すなわち嘘を事実とする今の世の中においては、「事実」は邪魔ものとされることも非常に多い。
では、事実というものは必要ではないのか?
私は、事実に対する重要性を把握している、ということ自体が、その者の資質の優劣に重要な要因、もしくは、その資質の根本的な基礎になる、と確信している。
まず、事実を追おうという意識。
そして、事実を見るために情報収集をしようという姿勢。
それから、情報を集積し、分別し、判定し、それらの繋がりを見つけるなり推測なりし、裏付けの補強となる新たな情報を想定し、わざと表に出さない物も想定、探し、ある程度のものを感じるまで突き詰める作業をする能力。
分別するには、集めた情報の一つ一つの真偽性を確認し、他の情報と照らし合わせ、、、、などなどの経験により、より物事に対する真偽性を見る目を育てていく。
情報を集めるには、集め方という技巧を高めていき、かつ「鼻」も効くような経験も高めていき、また、一見無関係と思えるようなことにも何かを感じて、それを情報として一応キープしておき、後々それが役に立つという勘も身に付きはじめる。
事実に対する重要性を持つということ自体、知力になる。
が、最も重要なのはそれではない。
その事実に対する重要性を持つことを含めた知力には、「徳」が不可欠なのだ。
知に徳があってこそ、双方が活きていく。
知に事実に対する重要性の把握が無い場合、それはとても知とは言えない。
なぜなら、正義を行うにも悪事を働くにも、事実の把握は絶対的に必要なものだからだ。
「行う」ことにおける状況把握という事実認識ができていないと、その行うことの確実性が無い。
しかも、事実認識は中途半端では意味が無い。勿論情報不足の時は、その時点で一時保留とし、その時点で分かっていることを元に、可能な限りの選択肢を用意し観察を続けるしかなくなる。
しかも、事実認識を行わねばならないことは「無数」にある。
それだけでも所謂我々一般人には脳が破裂しそうな仕事になる。
ただ、「慣れ」というものは恐ろしい物で、、、、ある程度まで無意識に行ってくれている。
知に徳が無い悪者の所業はたやすい。
が、徳があるもの達がその悪行に対抗する場合、後手になるしかない。
だからこそ、事実に対する重要性を認識し、それを確認することを一つ一つしていかねばならないのだ。
ただ、その事実をつかんで公表しようとしても、それが役に立つかどうかというと、今の世ではあまり役にも立たないようだ。
しかし、最低でも事実をつかんでおくことこそが、こちらとしての最低の準備だ。
事実を知らねば、悪事を働くやつらのいいように騙されてしまうだけだから。
我々一般人の中でもほとんどの者たちは、考えることを嫌い、しなくなった。半数以上の者たちは考えることができなくなっているようである、特に団塊の世代を中心とした10-20年位が厳しい。
今の若者たちの脳味噌は二分化し、考えることが↑よりうまいもの達が1割弱、他は↑同様自分で自分の脳味噌を使うことがほとんど不可能なもの達と化している。
アドルフの言うロボット化、ウリの言うトミーだな。
日本人だけではない、支那の一人っ子政策によって生み出された支那板だ。
タイなど後進国においては、無理。
先進国以外の者たちに、その可能性は皆無だ。資質の問題、DNAの問題なので割り切りが必須。
それができない者たちによる時間や資金や資源の浪費を当座はやめさせるべきでもある。
また、
我が国内においても、その事実把握の重要性を最も持たねばならないもの達は、政治家たち、なのだ。
官僚でも司法でも行政でも国民でもない。政治家たちが事実に対する重要性を確実に認識できなければ、その国は崩壊する以外の道は無い。
事実を捉え、だが、その事実を公表することもできず、しかし、その事実に逆らっての行動を「ばれないように」しなければならなかった政治家も多いだろう。
ばれて殺害されたり葬られたりした者達も多いだろう。
今、唯一の希望が「ネット」という情報ダダ漏れにできる「手段」だ。
だが、事実とでたらめをごっちゃにさせようという手もやってきている。
何が事実か見極めさせない、というわけだ。
だからこそ、日々事実を追い続けようとすることにより鍛えられることが必須なのだ。
「便所の落書き」と呼ばれるにちゃんねる。
そこでは「3年ロムれ」と初心者は言われる。事実を嘘くらい簡単に見分けろよ、そのくらい力をつけるには3年くらい毎日毎日ロムを続けな、というわけだ。
3年というのも甘いかなー、とも思うが。
今日、どこか歩いていて見た風景が、数年後のどこかでの何かの重要な補強材情報になることもある。
無駄な物は無い、と思い、しかし、そう極端に緊張せずに、一つ一つ「軽い興味を持ち」ながら生きていれば、保管する情報量はけた違いに増える。
見聞きすることがその見聞きしたままのことではないことが多いが、それでも初期情報の一つ一つだ。
しかも自分の見聞きしたことなので一次情報だ。
いやー、まただらだらととりとめも無くなってしまった、、、、OTL、、、、
いつもながらかっこ悪いねぇ、、、
「自分」の精神を鍛えたいならば、「事実認識に対する重要性」を常に認識しておいた方がよい。
ということにもなる。
政治家たちは、いざという時に自分を守れるのが、政治家たちの社会においての事実に対する重要性の認識が高いか低いか、が最も重要なカギとなる。
多くの者たちが事実に対し率直になれれば、敵でさえもそれなりに信頼を置けるものだ。
「嘘」しかない世の中、それは「事実」をないがしろにするしかない「意識」や「思考能力」の問題から、事実や正義が崩壊し、後に残ったのが「嘘」と「力」だけであった、ということだけだ。
嘘や力が強いのではない。「事実」と「正義」が自爆していったから、嘘と力が残っただけだ。
もし、将来いつの日か、また「正義」と「事実」が立ち直ったら、再度自爆させられないよう、「悪よりも力強い正義」であり、「嘘よりも力がある事実」にしてほしい物だ。
もうその時代には私はいないだろうが


by unimaro
調和